紙に書いたメモをつらつらと
丹陽町は海だった。地質調査にて確認
縄文土器は西日本と東日本バージョンの2パターンが存在。
これは縄文時代には渡来系弥生人と縄文人が混在して生活していたため。
この一宮が境になっているようだ。
ヤマトタケルが「東国」と言っていたのは、一宮より西を意味しています
浅井に船着き場がいくつもあった記録や痕跡が残っている
博物館に縄文のつぼや土偶が売っていた。
由来
三輪村→(地域合併で)苅安賀村→これが不評で→大和村に変更→大和町
400年代の今伊勢古墳群 大和国家の成立当時
847 真清田神社、記録に初見あり
国造 尾張連
新編一宮市史によると
8世紀 本神戸は伊勢神宮が持ち主であtった
本神戸は、奥町、瀬部、千秋、佐千原にもあった
1150年 真清田神社の田んぼの所有者は、鳥羽上皇高女八条院の領地であった
公園
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17:20 三ツ井の鬼ヶ島公園
桃花祭は中国由来?
真清田神社周辺は、かなり古来から松降荘青桃丘と呼ばれていた。
桃の木が群生していたのです
しかし日本には元来、桃なんて生えていませんでした。
中国からやってきたのです。
どうやら、桃自体は縄文時代にも日本にもたらされたようですが、本格的にもたらされたのは弥生時代の後期にあたります。
そのころに真清田神社周辺に、渡来人たちによって桃が植えられたのかもしれません。なので当時、中国系の文化をもたらした渡来人たちがこの地を支配していたのかもしれません。
尾張氏も、もしかしたら当時の中国(南地方)系の血筋を受け継いでいるかもしれません。真清田神社自体も、尾張造という建築方法ですが、中国的な要素をみることができます。